創立者 吉田豊彦のメッセージ
開院40周年記念誌に寄せた吉田豊彦(故人)の挨拶となっております。
私が千葉市真砂地区に開院を決めた最大の要因は、松戸市立病院5階病棟の泌尿器科と耳鼻咽喉科の混合病棟に勤務していた髙山先生に強く勧められたことによります。
私と透析との出会いは、昭和46年に松戸市立病院で泌尿器科の腎不全に必要な透析を始めたことから始まっていますが、当初の装置は今では想像もできない劣悪なものでした。
シャントも外シャントのみで、内シャントに移行できた時は、デイクロッティングから解放され、シャント管理が楽になった喜びを思い出します。
開院前の基礎は、松戸市立病院での泌尿器と透析で、ほぼ出来上がっていたと言っても過言ではありません。
開院初日の全従業員は28名程でそのほとんどが松戸市立病院で私が育ててきた人達でした。また開院当初の透析患者数は30名でした。
何故開業したのか、開業が必要だった最大の理由は、国公立病院での透析は、他科との兼ね合いもあり、日進月歩していく透析への投資が充分に確保できないためでした。
また透析の優秀なスタッフの確保、技術の蓄積並びに研究と開発等には、多額の投資を必要としますので、一般病院の中の透析部門では実施は全く不可能でした。透析患者さん達に現時点でできる最高の治療を提供するためには、自分で独立し、自分の理想を実現すべく開業致しました。
技術の蓄積と優秀な人材を育てるため、まず臨床工学技士を育てることにしました。優秀な人材を育てるためには、投資を惜しまぬことと当院と一緒になって研究、開発をしてくれる業者(最初はメラ、その後ニプロ)を選択することでした。当初はなかなか成果が上がりませんでしたが、一貫して方針を変えずに行った結果、現在皆様が認めるレベルの高い施設を作り上げることができました。
オーダー会議、月間透析記録用紙、透析手当、単位制の採用等は、一貫してより良い透析と安全な医療を患者さんに提供するために当院独自で始めたものです。
この40年を振り返ってみると数々の失敗と反省の連続で一時も順風満帆な時はありませんでした。難聴事件、熱発事件等は多数のマスコミが病院を取り囲み翌日の新聞の一面に大々的に報道されるなど苦しい時を経験してきました。
人生とは結局のところ、苦難、苦難の連続であり、人生の快楽は一つ一つの苦難を乗り越えたわずかな休息のみにあるといってもよいのかもしれません。
人を育てるには、忍耐と寛容が必要です。いつでもどこでも常に人材を育てていかなければ、いずれ組織は崩壊していきます。これからも次々と越えていかなければならないことが山積みしています。どうかこれから引き継いでいく皆様は、忍耐と寛容とを心の護符として頑張って下さい。